プロローグ
一月、晦日
一月の依頼票には、二種類しかない。「捕まえてくれ」と「看取ってくれ」だ。
今朝がた白暦院の掲示板から剥がしてきた一枚は、前者だった。依頼主はミレ村の共同組合。対象は「終わり損ね」の大牛――先月のうちに屠るはずが逃げ、屠り時を逃したまま一月に入ってしまった個体。討伐報酬は出ない。一月に討伐という言葉は、そもそも存在しない。何も死ねない月に、殺しの仕事はないからだ。あるのは捕縛料と、月明けの屠畜予約金。それと、暴れた場合の物損を組合の欠け保険がどこまで持つかという、うんざりするほど細かい約款だった。
「約款の読み合わせ、三回目だぞ」と俺は言った。
「三回目でも読む」荷車の上で、ドマは指を舐めて頁をめくった。「一月の物損は保険屋の稼ぎ時だ。何も死なねえ月は、何も諦めがつかねえ月でもある。壊れた納屋は壊れたまま春まで残る。恨みもだ」
こういうとき、俺はドマの昔話を思い出す。三十年、遺体回収をやっていた男。初死の朝のたびに、ひと月分の別れを荷車に積んで運んだ男。あの話を聞いたのは、たしか去年の秋、雨の日の宿だった。窓の外に雨音がして、シオンが湯を沸かしていて――
「晴れてたよ」
隣を歩くシオンが、こちらを見ずに言った。
「え?」
「ドマの話を聞いた日。雨じゃなくて、星が出てた。……ん、なんでもない。ほら、村」
ミレ村は、いい村だった。いい、というのは備えがあるという意味だ。柵は二重で、燻製小屋からは先月仕込んだ煙の匂いがした。組合長は俺たちの月鑑札を疑い深く検めてから――一月鑑札は偽造が多い――大牛の居場所を教えた。村外れの沢だ。
大牛は、沢の浅瀬に立っていた。
立っている、というのは正確じゃない。立たされている、が近い。左の脇腹に猟師の槍が深々と入ったままで、本来ならとっくに事切れている傷だった。けれど一月だ。終われない。牛は終われない身体で三日、浅瀬に立ち続けていた。目だけがこちらを追った。
「……縄、いらないかもね」シオンが小さく言った。
縄は使わなかった。大牛は歩けなかったからだ。俺たちは半日かけて沢に足場を組み、牛を橇に乗せ、村の療小屋まで運んだ。治せはしない。「実る」は今月ちゃんと居るが、あの傷はもう治癒の領分じゃない。できるのは、月明けまでの十日、痛みを薄める概晶の膏を貼ってやることだけだ。九月なら三十倍の値がつく膏を、組合長は迷わず出した。いい村だ、というのはそういう意味だ。
帰り際、組合長は帳場の奥から予約札を出して、月明けの屠畜人の手配を頼んだ。それから、少しためらって言った。
「初死の朝には、うちの婆さまも行く。牛と一緒だ。……あんたらの院じゃ、ああいうのはなんて言うんだったかな」
「お迎えの相席、です」と俺は言った。「いい席ですよ。ひとりで行くより」
組合長は笑って、それから泣いた。一月の終わりに人がよく浮かべる、あの、順番のおかしい顔だった。
宿に戻ったのは晩だった。晦日まであと二日。
ドマは帳場で保険屋と物損の査定を詰めている。俺は二階の部屋で装備を解き、シオンは窓際で、いつもの革表紙の帳面に何かを書きつけていた。彼女は記録魔だ。依頼のこと、金の出入り、その日の献立。あの帳面には俺たちの一年が全部入っている――はずだ。読ませてもらったことは、たぶん、ない。
「明日は」と言いかけて、シオンが口をつぐんだ。彼女は明日の話をしない。代わりに言った。「……お疲れさま。今日のあなた、よかった。相席って言ったとき」
「去年も同じこと言ってたか? 俺」
手が止まった。羽根ペンの先が、頁の上で一拍だけ迷った。
「そうね」と彼女は言った。「去年も、言ってた」
俺は寝台に腰を下ろして、なんとなく、続けた。埋めるように。思い出せるものを順に並べるように。
「去年の一月はたしか、北の峠だったろ。逃げた馬の群れで、ドマが橇ごと沢に落ちて――で、月明けに三人で、初死の朝の鐘を聞いた。西の丘で。おまえは泣いてて、俺が」
「もう、やめてよ」
静かな声だった。責める調子は、少しもなかった。ただ、疲れていて、そして、限界だった。シオンは帳面を閉じた。革表紙の隅に、小さな文字で題が押してあるのが見えた。
『十二月のあなた』。
「……“覚えてるふり”は、もう、いいの。丘は東だった。泣いてたのは、あなた。そういうところ、毎月ぜんぶ、私が書いて、毎月あなたは朝それを読んで、それで」
彼女は息を吸った。晦日まで、あと二日だった。
「だってあなたは──」
文は、そこで途切れた。
彼女が言いやめたのではない。この世界のどんな声も、その先を発音できたためしがないのだ。宙吊りになった続きが、灯りの下で、ほんの少しだけ空気を重くした。俺はそれを、毎月この時期にそうするように、黙って受け取った。
窓の外で、一月が終わろうとしていた。
何も死ねない月の晦日に、消えるのは、いつも俺だけだ。